虚無と闘う大学院生

大学4年間を虚無と堕落で埋め尽くした大学院生が熱量を取り戻すまでを描いたブログ

死が怖いのは絶望と諦めが足りないから

死が怖い。

そんなことを考え始めると夜も眠れず、何も手に付かない。

さっきまでそんな気分だった。

 

死というゲームオーバー制度に直面すると全価値の形骸化が起こる。

人生の無意味性に悩む悲観的な虚無主義は、超人への中間状態であるとニーチェは言う。

虚無だからこそ、無意味な人生だからこそ自らで価値軸を作り出し、探し求め、その中で徹底的に遊ぶしかない。

それ以外に人生を生きる方法がない。

 

死が怖いのは死を真正面から受け止めていないからだ。

何か未知の、想像上のものだという認識があるからだ。

絶望が足りない

絶望の先にある諦めが足りない

死とそれに伴う生の無意味性への直視、および諦めに基づいて自らの手で価値判断を行うことへの認識を習慣的に行うことによって、超人になることができる。

他人の価値観に生きず、自分で楽しみを見つけ、噛み締めていく。

 

楽しいことだけで生きていけるかどうか、などと考える余裕があるのは絶望が足りないことが原因。

「好きなことだけして生きていけるほど甘くない」という発言も生への淡い期待が見えすいて気色が悪いし、「甘くなんてない!俺は絶対に好きなことだけして生きていく!」という力んだ発言も何もわかっていない。

既存の諸価値への、そして生そのものへの絶望が甚だしいが故に、自らの手で価値軸をつくりそれを信じその中で良いものを目指す、という行為以外に本質的な生きる意味を見出せない、というのが正解だ。

 

死を真正面から受け止め、生に絶望し、自分で楽しみを見つけ出しその瞬間を生きていく以外に生きる道がないと心の底から思ったのであれば、自らの心が喜ぶことをしていく以外に生きている価値を見出せない。

 

死が怖いのは絶望と諦めが足りないから。

他人の価値観で生きていけるのは絶望と諦めが足りないから。

惰性で生きていけるのは絶望と諦めが足りないから。