虚無と闘う大学院生

大学4年間を虚無と堕落で埋め尽くした大学院生が熱量を取り戻すまでを描いたブログ

意味を求めるからこそ虚無から抜け出せないというお話

ここのところ完全に虚無が癖になっている。

広く4年ほど。

特にここのところは酷い。

大学に入学して、卒業するまでこのクセは抜けなかった。

 

こういった類の思考が出てくる時には一つ上から自分の感情を見なくてはならない。

というかそうでもしなければそのどうしようもなく強いネガティブな感情に真正面から立ち向かって行かなくてはならなくなり、どうあがこうと潰れてしまう。

自分はこのような負の感情と対峙することに慣れっこだが、それでも毎度キツい。

つまり虚無になっている自分を客観的に見下ろすということだ。

あとはとにかく書くでもタイピングするでもいいから自分の中からその感情を吐き出すこと。

溜め込んでいるものが何かわかるだけでも、未知への恐怖が薄れる。

今自分がやっているように。

 

虚無というのは意味を求めているからこその感情であるように思われる。

人生には意味が必要だ、この行為には意味が必要だ

こういった感情が潜在しているにもかかわらず、目の前の物事の中に潜在意識が定義する"意味"が存在しないことによって虚無が顕在意識に表出してくる。

 

 

暇になった時に何をしようとするか。

これによって虚無になるかどうかがわかる。

 

最もわかりやすいのは大学生になった時。

大きく分けて3つに別れる。

これはやっている"こと"による分類ではなく行動のモチベーションによる分類である。

まず第一にやりたいことをやる人。

大学生活は人生の夏休み!遊び尽くしたい!という真偽は置いておいて自然な感情とともにバイトにサークルに、興味のある分野を勉強したり、もう少し高い視点の人であれば起業してみたりと、すでにある欲求が大きく、行動を起こすのに十分である人だ。何らかの障害に出会うかもしれないが、自らの欲求ドリブンであるため挫折率は低い。

第二に惰性で物事を行う人。

何の欲求もないがとりあえず周りに合わせてサークルをし、バイトをし、みんなが行っているからと適当にインターンに申し込み、と特に何も考えずに4年間を生きる人。その先に何があるかを考えることなく動くので最も不幸を感じにくい。

最後に意味を求めて動く人。

いわゆる意識高い系である。とりあえず大学入学するも、行動を起こすに至るほどの欲求もなく、かといって惰性で生きる人間を心の中で軽蔑している。サークルやバイトなどは無意味だと言い張って深く手を出さない。有名なスティーブ・ジョブズのスピーチにおける"connecting the dots"を現在において意図的に行おうとしてしまうタイプだ。熱量がないため挫折率が異常に高い。

 

いうまでもなく3つ目のタイプ、つまり意識高い系が最も虚無を感じやすい。

自分の楽しさ、惰性を受け入れず他人の価値観にしたがって行動を起こすため、結局何のためにやっているのか、という問いに頻繁に遭遇することになる。自分もまごうことなきこのタイプである。

 

大学の授業にしっかり出ることに意味を感じることもなく、大学の勉強を必死でしている人を小馬鹿にしている。留学したいわけでもないのにとりあえず英語を勉強してみたり、稼ぐスキルを身につけるだの何だの言ってプログラミングを始めてみたり。しかし根底に熱量のあるモチベーションがあるわけではないのですぐに飽きて違うことに手を出してみる。そのようなことを繰り返すもんだから失敗体験のみが積み上がっていき自尊心は下がる一方。そのような状態で新しく何かを始めようとしたところで、心が疲弊しているのでやりたいことなどというポジティブなモチベーションが湧き上がってくるはずもなく、結局また他人の価値観に迎合した新しい行為を試す。すぐに虚無を感じて挫折。この繰り返しである。

 

正直このフレームワークの中でもがいても一生結果は変わらない。

自分がまさに今この中にいるから身に染みてわかる。

一生もがいても絶対に何も変わらない。

意味に囚われている限り幸せになれぬまま死んでいく。

 

しかも重要な点がもう一つある。それはこのような生活をしていると孤独である確率が高くなるということ。

虚無を紛らわすような友人すらいないような状態では、環境の力によって自らを強制的に引き上げることもできない。

 

ただし勘違いしないで欲しいのは、このような意識高い系というのは物凄い真面目で向上心の強い奴なのだということ。

正確にいうと、自分が他人の人生を生きてしまっている意識高い系であることを認識して悩み、もがき、人生に苦しんでいる人である。つまり主人になりたい奴隷だ。

自分が他人の価値観の下敷きにされていることに気づかず、意味ありげなことをしてにんまりしている人間はこの中には含まれない。このような人たちは自らが奴隷であることにすら気づかず、奴隷として幸せに死んでいくのだろう。それも幸せかもしれない。

 

なのでこのように思い悩み、何をすれば良いのかわからない、という問いをたてられている人は、考え方のフレームワークを変えれば圧倒的な速度で幸せになるに違いないと信じている。

それまでの鬱憤を晴らすかのように。

 

ではどのように考え方のフレームワークを変えれば良いのか。

 

このような虚無で孤独な人にとって最も必要なことは、自分が他人の価値観に、教義に縛られて生きていることを認識することである。

自分の人生がどこぞのインフルエンサーの価値観の下敷きに、奴隷にされていることに気付くことだ。

意味を求める人というのは、自分の感情にしっかりと目を向けずに行動を決定してしまう。

だからこそ時間の経過とともに違和と虚無が生じてくるのだ。

 

そしてその他人の価値観の中でもがいていることを認識できたら次にすべきことは自分の心の動きが良くなることを気ままに探すことである。

つまり自らの人生の主人となるのだ。

この時に注意すべきことは、そこに承認欲求や劣等感に起因する要素が含まれていないことを徹底的に考察し、それらを除くことである。

例えばプログラミングを”金が稼げれば幸せ、その手段としてプログラミングをする”という他人の価値観のもとに行っていた人。

お金を得ることによって満たされると思い込んでいる承認欲求や劣等感、これらの対人比較を主たるモチベーションにしている限り人は幸せにはならない。

自分の身一つで、幸せであると胸を張って言えれば、誰が何と言おうと幸せなのである。

プログラミングも、自分の心が真に動くような目的意識と方法で行えば楽しくなる道はあるかもしれない。

今までは効率の良いと言われていたテキストを初めから読んで、大して興味のない機能のついたアプリケーションを作っていたが、自分が心から欲しいと思えるアプリや、普段日常生活で感じていた不満を解消するようなアプリを作るように目的をシフトさせれば自分が楽しくプログラミングができるかもしれない。

このように目的を想像して自分の心が良い動きをするかどうか、というのを行動の前に徹底的に吟味してあげる必要がある。

 

あまり力んではいけない。

インフルエンサーの方々に感化されすぎると最初から壮大なことを為そうとしてしまうし、今やっていることからはみ出した対象に対して興味を抱こうとしてしまうが、それもまた意味への隷従である。

すべきことは、幸福の再定義である。

今やっている行為の中で他人の価値観にしたがっている部分を減らし、自らが真に求めることは何かを考える。

それだけ。

 

例えば腹筋を割りたいと筋トレをしている場合。

まだ見ぬ女の子の視線という承認欲求のみをよりどころにした行動ではいずれ虚無に襲われるかもしれない。もちろんそれだけでとてつもないモチベーションになる人はそれを大事にすれば良い。

そこでなぜ自分は腹筋を割りたいのか考える。

腹筋の割れた自分の姿を毎朝鏡で見て鳥肌が立つような感覚を想像し、それが燃えるようなモチベーションになるのであればよし。

夏までにこんな体になるぞ、とマッチョの画像を毎日眺めることで毎日モチベーションを補充するでもいい。

このように別に大きく行動を変えずとも、ある対象をみる角度を変えてあげれば良い。

そして行動をする際にはそれを噛み締めるということだ。

 

よく”やる気なんてものに左右されるな”という文言を目にする。

正しいが間違っている。

なぜなら根源に強い正のモチベーションがなければ、つまり楽しいと思う物事に対する行動でなければその日のやる気に関わらず常に虚無に包まれるからである。

この言葉を額面通り受け取り、大してやりたくない物事に対して毎日苦行のように習慣化や強制力の力を借りて向かおうとするととてつもない虚無が襲ってくる。

もちろん正しい目的設定ができているからと言って全てが楽しくなるとは思わない。

さまざまな障害が襲ってくるだろう。だが楽しくないことに対する無目的な継続に比較すれば精神的な疲労はかなり小さい。

しかし微小行動の先にあるゴールが望むものでない限り、楽しいわけがない。

疲弊する一方だ。

 

そしてよくインフルエンサーが言っている言葉に対する反抗が続くがもう一つだけ。

それは”最初からやりたいことなんてわかんないんだからとにかくいろんなことに手を出せ”というもの。

この真の意味は”最初から人生をかけて良いほどのめり込めることが見つかるわけはないんだから、とにかく少しでもやってみたいことに手を出せ”であって、断じて ”やりたいかどうかもわからないままとりあえずあらゆることに手を出せ”ではない。

思考停止の徒労ほど疲弊するものはない。

つまり何をやるにしてもどのようにすれば自分が幸せを感じるか、どのような角度で対象を見れば面白くなるか、というのを不完全でもいいから想像&仮説立てしてから、楽しそうだと思ったことを片っ端からやっていくのは良いアプローチであるということだ。

 

ここで最後に一つ考察すべき要因が環境である。

環境というのは自分の行動を促進するためのコミュニティだ。

例えば就職すれば否が応でもその職場に最適化された働き方をする人間になるだろうし、日々の行動も変わるだろう。

よく、行動を継続させるためには環境を変えてしまうのが一番、という意見を聞く。

この意見は正しい。

しかし必ず満たされるべき前提をすっぽかしてしまうとこの上なく不幸になる。

それは先ほどから述べているように自分の心が真に動くような目的を持てているかどうかということである。

確かに環境を変えれば強制力が働くため、行動は促進される。

しかしあくまで促進であり、0から1が必要であってはならない。

つまりその環境がなければ全く行動を起こす気になれないような目的の設定は間違っているということである。

環境がなくとも行動を起こしたくなるような、自分の心が真に満たされる目的設定をした上で、そのような行動が促進される環境に飛び込むのは素晴らしい選択である。

環境を変える前にまずは自分が何をすれば心が幸せになるのかを徹底的に考察することだ。

 

偉そうに書いておきながら自分も虚無と戦っている最中であり、自らの心が承認欲求や劣等感なしで良い動きをするような物事は見つけようとしている段階なので皆さん一緒に頑張りましょう。