虚無と闘う大学院生

大学4年間を虚無と堕落で埋め尽くした大学院生が熱量を取り戻すまでを描いたブログ

常に目の前のものを目一杯味わうということ

浮気性とは恋愛に限ったことではない.

浮気性とは,今ここに集中しない精神習慣のことだ.

 

食事をしている時はテレビに目を取られ,勉強しようと思えばスマホに気を取られ,LINEをしながらYouTubeを流し見る.

ここで一つ注意がある.

仮に食事をしている時にふと目に入ったテレビ番組に”見入っている”のならいいのだ.

つまり,気を取られた先でその対象に集中しているというのは浮気性ではない.

ただの多動性である.

次々に興味が移り変わることは今回は浮気性とは定義しない.

なぜならこれは真に自分の心の声を聞き,自分の心が真に望むものに対して真剣に向き合っているからだ.

多動性は浮気性の対極にあると言っても過言ではない.

 

では浮気性とは何か.

それはある一時刻に注目した時に,一つのことに意識を100%向けていないことが多い性質のことである.

一日を振り返った時に何かに,真に意識を全集中していた時間があるか考えてみると,案外少ない,というか無い日すらある.

そして没頭,今この瞬間に意識を集中させることというのは時間の感覚を失わせ,幸福をもたらす.

よって何かに集中する時間を増やすことを目指す.

 

ここで考察したいのは,勉強と休憩の関係についてである.

勉強は何かへの集中,休憩は意識を散漫にし脳を休める,というニュアンスで捉えられることが多い.

しかしそれでは意識の集中という点において完全に異質の行為を連続して行うことになってしまい,休憩から勉強へ移行するハードルが高くなってしまう.

ピントが合っていたものをぼやけさせた時,それを再び合わせるのには労力が必要となる.

 

ではどうすればいいのか.

それは休憩を何かへの集中に使うべき,ということだ.

当然ある程度の時間勉強に集中した場合,脳のエネルギーを消費していると考えられるため,一定時間思考や視覚に使われる脳の部分を休める必要はあるだろう.

しかし勉強の時には使われていなかった脳の部分があるはずであり,そこを用いれば何か別の対象に意識を集中させることは可能である.

例えば音に集中すること.

音楽を聞くでもいいし,身の回りの音に耳を傾け,それに集中するでもいい.

音楽を聞く場合,あまり意味に気を取られるような曲を選んでしまうと思考が休まらないため,聴覚に直接訴え,感覚のみで受容可能なものを選ぶ必要がある.

あとは味覚に集中すること.

何でもいいから口に入れ,それを味わってみる.

個人的に効果を感じているのは体性感覚に集中することだ.

例えば,重力を感じることや,呼吸時の体の動きを見ること.

体の各部分に意識を向け,客観視を行い,その部分に働いている力に思いを馳せる.

 

これらの行為は思考ではなく感覚であるため,勉強における疲労の回復を妨げない.

それどころか促進するほどである.

このように目の前にあるものに感覚を集中させるということを繰り返す.

そうすれば様々な場面で集中することが容易になると,最近実感している.

認め決意し覚悟する

まず自分の人生に不満を持っていることを認めなくてはならない.

そしてもう一つ認めなくてはならないことがある.

それはその不満だらけの人生は100%自らの選択の結果であるということだ.

これら2つの事実を認めたら,次に自分の人生をより良いものにしていくと決意をする.

そして最後に自らの人生をより良いものにするためにはいかなる犠牲も厭わない,と覚悟するのだ.

自らの行動によって現状の不満だらけの人生が出来上がったため,これからは自分の人生をよりよくするための行動に対しては一切言い訳をしないことを誓う.

何より,そのような行動をしていくことは最高に苦しいことだということを覚悟することが重要である.

そうでなくては,楽して望むものを手に入れようとしてしまうため,自分の思い通りにならないと感じてしまい,不必要な挫折をしてしまうからだ.

楽して手に入らないのが当たり前だ,という覚悟を持つことが重要なのだ.

 

これらの思いをもって何か具体的行動を継続させることが大事なのだが,ここで気をつけるべきことがある.

それは楽して手に入らないからと言ってネガティブにならない,ということだ.

楽して手に入らない,そしてそれを手に入れる,という断固たる決意を固めなくてはならない.

 

そのような精神的土台があってはじめて,マインドフルであることが有意義でありうる.

目的地や方角の定まっていないマインドフルネスはただの現実逃避であり,決してそれ単体で人生を豊かにするものではない.

情熱はマインドフルな感度の良さからくる

コービーブライアントは大きな情熱を持ってバスケットボールに打ち込んでいた.

何故できたのか.

彼はこう語っている.

 

バスケットボールの全てが好きなんだ.

ボールの匂い.

新しいスニーカーの匂い.

ボールが地面を叩く音.

ボールがネットを通る音.

 

これらからわかるのは,彼がバスケットによって生まれるあらゆる感覚情報を好んでいたということである.

あらゆる情報を,細部にわたって取得するにはマインドフルな状態,今この瞬間に100%意識を向けた状態が前提される.

そしてその中で五感が高い感度を持ち,様々な情報を受け取るのだ.

様々な情報に100%の意識を持って触れるため,当然その要素のいい面も見えてくる.

すると好きになる.

そこから情熱が生まれ,全ての過程が始まるのだ.

 

これはバスケットボール,スポーツに限らない.

熱意があるから圧倒的な行動量につながるのは事実だ.

しかしその熱意というのは無から湧き出てくるものではない.

今この瞬間に意識を集中させた結果,対象の細部まで知覚することができ,魅力を見つけられる確率が高まるからこそ,情熱が生まれるのだ.

 

つまり自分は何が好きか,何に熱意を持てるか,というのは自分の内面を探っている限り一向に見つからない.

自らの外側にあるものに積極的に触れ,そこに意識を集中させるからこそ,情熱の卵のようなものが出来上がるのだ.

 

なので小難しいことを考えるのではなく,まずはゆっくりとした呼吸を一日を通して無意識にできるところまで落とし込み,マインドフルに過ごせる時間を増やしていくことが情熱を持って生きるのに最適である.

呼吸と姿勢を整え,現在に意識を集中させる.

これこそが”楽しい人生”への最短経路だと思う.

思考と格闘しないことの重要性

つまらない時人は何を考えるか.

 

早くこれを片付けないとやばい,という焦り.

他の人はこんなこと簡単にやっている,という他者との比較.

こんなことより遊びたいなぁ,という気の逸れ.

なぜつまらないのだろう,という原因究明.

何のためにやっているのか,という過度の目的意識.

俺のせいじゃなくてこのモノがつまらないんだ,という責任転嫁.

つまらないのは集中力が足りない自分が悪い,という自責.

 

様々だろう.

というかこれらの内複数,もしくは全部が同時に頭に浮かんでいることも多い.

 

しかし重要なことが一つある.

それは,どのような種類であれ思考に気を取られているからこそ目の前の物事の楽しさを見つけられない,ということだ.

よって例え明確な目的と高いモチベーションが手に入ったとしても,少しでも集中力が切れた時に自責してしまうような状態では,結局再び楽しくなくなるのだ.

しかも初めから明確な目的と高いモチベーションが生成されるわけがない.

つまり変に期待を抱いてはいけないのだ.

 

ではどうすればいいのか.

それはあらゆる思考を来て流れるままにしておいた上で,何でもいいから眼前の物事に意識を向けることである.

目的もモチベーションもつまらない原因探しも他者との比較も存在を認め,コントロールせずに眼前に意識を向けることだ.

当然distraction,つまり気の逸れは常時起きる.

あらゆる思考が邪魔してくることはよくあることだ,というマインドを持っておくことが大事なのだ.

全ての思考にまともに取り合うからこそ,思考もつけ上がるのだ.

「ボクって重要な思考なんだ」と自信を持たせてしまうのだ.

 

つまらない,という思考とまともに格闘してしまうから,それが事実になってしまうのだ.

他者と比較し落ち込んで行動できないが故に,事態が進展せず,悪い結果を招いてしまうのだ.

集中力が足りてない,という思考とまともに組み合うから,その思考が自分の中で大きな部分を占めてしまい,実際に集中できなくなるのだ.

 

なので俺も,今月は思考をあるがままにしておくことを習慣化することを目標の一つとしたい.

何でも楽しいモードになる能力

心ここにあらずの時,死が頭をよぎる.

過去に未来に,そして他人に意識が向いている時,生きている実感を得られない.

なぜなら今この瞬間に自分が存在している,という至極当たり前の事実に目が向いていないからだ.

よって裏を返せばマインドフルに,つまり今この瞬間に意識を向けられていれば,自らの存在意義などを問うことはしないと考えられる.

 

そしてマインドフルに今この瞬間に生きる,というのは単に意識が現在に向いていることを指しているのではない.

現在に意識が向いている上で,眼前の物事に対して高い感度を持って接している状態を指しているのだ.

平たく言うと,何でも楽しいモードである.

つまり眼前にある物事が何であっても,好奇心を広く持てるオープンな心を持って対峙すれば楽しめるのだ.

 

ではどのようにすればそのようなモードに入りやすいか.

それは

  1. 何も楽しくないモードに入っていることを認識し,その先に楽しいモードはないことを自覚する
  2. 呼吸や体性感覚を通じて現在に意識を向ける(この時に過去未来や他人にトリップする心の存在は否定せず受容すること)
  3. 何か一つ対象を選び,とにかく始めてみる

という手順だ.

 

重要なのは,つまらないと感じている原因は眼前の物事にはないということだ.

自分の心が硬く閉ざされており,過去未来や他人に意識が向いているが故に眼前の物事の魅力を感じる心の容量が残されていないのだ.

はっきり言えば,自分が原因なのだ.

これは一見自責に見える.

確かに高い攻撃性を持つ自責は不必要だが,自らへのニュートラルな責任転嫁により「自分次第で状況を変えられる」というポジティブさを持つことは重要である.

この場合においては,自分が何でも楽しいモードになることができれば眼前の物事を楽しむことができる,と認識することが重要だということだ.

 

上記のステップで何でも楽しいモードになる訓練をすることが,不必要な自責による現在の素通り,つまりマインドレスな状態を脱するのに最善の策である.

今を生きるためには毎秒思考するべき

今を生きるというのはその瞬間に存在する外界のものに意識を100%集中させるということだ.

 

今を生きる,と対極にあるのが,未来を見据える,である.

例えば本を読んでいる時でも,その本から知識を得ること自体に価値をおいていると現在への意識が薄れてしまう.

そのためにはその本に出てくる事項についてしっかりと自分の頭で思考する必要がある.

そうしないと知識だけが,ましてや文字だけが頭の上を滑っていくからだ.

 

それを防ぐためには,外界のものについて毎秒思考し続けるのが良い.

外界,というのがミソだ.

というのも思考のベクトルが自分の内面に向くことは精神衛生上よろしくないからである.

不快な感情に目を向け,その発生理由を探ろうとしてしまうような行為は,幸福をもたらさない.

感情というのは基本的に,何の理由もなく唐突にやってくるものだからである.

心はひっきりなしに何らかのストーリーを発している.

それにいちいち振り回されるのは単なる時間の無駄である.

そのために外界へと目を向ける必要がある.

 

外界へと好奇心を持ち思考することができれば,内面と外界の融合が起こり,深い統合の感覚を味わうことができる.

自他の融合の感覚は幸福をもたらす.

よって毎秒外界と融合するイメージを持って思考をするべきだ.

 

結局今に集中するしかないという話

人生には変数が無限にある.

比喩ではなく,文字通り無限である.

毎秒どのような行動をとるのか.

その選択肢を毎秒ごとに掛け合わせれば,無限の人生が生じる.

そして行動だけでなく,それぞれの人間の資質にも様々な変数が存在する.

ポジティブな人,ネガティブな人.

行動的な人,非行動的な人.

何かを好きになることが得意な人,苦手な人.

 

本にしろネットにしろ他の誰かに意見を求めても,俺と完全に同じ性質を持った人間はいないという理由から,完全な答えは絶対に得られない.

大袈裟に聞こえるかも知れない.

しかし情報が氾濫している現在においては,どこかに完全な答えがあるはずという幻想を抱きがちである.

そのような幻想のもとにたどり着いた答えに対しては,強い盲信を抱きがちだ.

すると視野が狭くなり,それ以外の考えを全て否定することになりかねない.

当然手に入れた答えらしきものは,自分にぴったりとあったものであるわけがない(完全に均質な人間はいないため)ので,いずれその答えの不完全性に絶望することになる.

 

ここまでの話をまとめると,演繹的には生きられないということだ.

何か一つの普遍的真理を見つけることに力を注いでいてはいけない,ということ.

 

ではどうすればいいのか.

その答えが,今に集中することである.

生き方の真理,つまりこのような場合にはこのように対処し,別のケースではこのような感情に注意する,などといった事柄に気を取られて目の前の事象を疎かにしているからこそ,人生が複雑であるように思えてしまうのだ.

極限まで変数を削ぎ落としたのが,今に生きるという姿勢である

具体的には今この瞬間目の前にあることに精神リソースを100%投下することを指す.

 

その際に案外厄介なのが,非理性に対する論理的思考である.

具体的には不快への原因究明が挙げられる.

例えば今この瞬間,今に集中できていないとする.

ここで「なぜ今俺は集中できてないんだろう?」と考えてしまうとドツボにハマる.

不機嫌な理由となりうるものは過去を遡れば無限に存在するからだ.

そして仮に原因を解明できたところで,それをどうすることもできないことの方が多い.

 

では不快になった時,今に集中できていない時どうすればいいのか.

それはその感覚すらも観察し,集中することである.

ここで重要なのは,先ほども書いたように論理的にならないことだ.

感じる,観察する,という中立的なものに留めておく.

そうすることによって集中していない自分,という存在に意識が集中していることになり,目的が果たされるのだ.

方角が決まればあとは黙って歩け

価値が見つかったら,つまりどの方角に進んでいきたいかが決まったら,あとはやるだけだ.

非常に単純.

しかし簡単ではない.

なぜなら動きたくはないから.

 

しかしどの方向に動けばいいかは何となくわかっている.

そうしたらあとは無理やりにでも始める習慣を身につければもう終わりだ.

非常に単純.

以上.