虚無と闘う大学院生

大学4年間を虚無と堕落で埋め尽くした大学院生が熱量を取り戻すまでを描いたブログ

心的充実の連続が結果的に意味を生むのであってその逆は絶対にないという話

その瞬間を楽しめないのであれば長期的に続くわけがない。

長期的な継続がないのだから意味がもたらされるわけがない。

つまり意味を求めようとするすけべ心が結果的に意味から最も遠ざかる要因であるという皮肉なことが起きる。

 

ここで重要なのは行為対象は変えなくていいということ。

心的充実を感じられるような姿勢を持てばよい。

それが前のめりさであり、それを強制するのが傍においたメモなのである。

楽しむためには心の楽しいセンサーの感度をあげればいいだけの話。

前も書いたが、意味を求めてきた人は心=楽しいセンサーが死んでいるのだ。

このような状態では楽しいはずがないし、楽しいことを見つけられるはずがない。

楽しいことをしよう!とゲームだけしようとするのがそもそも真面目すぎるのだ。

まったくやったことがないがものすごく楽しく思えるものがこの世にはあるかもしれない。

つまり全てを公平に見るということ。

 

全ての対象に前のめりさを、つまり楽しいことセンサーを、アンテナを張り続けるという姿勢こそが本物の心的充実を生む。

そしてそうして生まれた心的充実が無意識のうちに継続され蓄積することによって、何もしていない人と比べれば結果的にある点において優れることになる。

結果的に、というのがミソである。

楽しさを継続することによって、意図せず何者かになるということ。

何者というのは別に世界で何位とかいう大きい規模ではなくて、何もしていない人にくらべて相対的に何か特徴的な部分がある、という意味である。

 

継続、蓄積、成長、という線によって時間を捉えるのではなく、心的充実という現在のただ一点に目を向けることでしか何も生まれない。