結局今に集中するしかないという話
人生には変数が無限にある.
比喩ではなく,文字通り無限である.
毎秒どのような行動をとるのか.
その選択肢を毎秒ごとに掛け合わせれば,無限の人生が生じる.
そして行動だけでなく,それぞれの人間の資質にも様々な変数が存在する.
ポジティブな人,ネガティブな人.
行動的な人,非行動的な人.
何かを好きになることが得意な人,苦手な人.
本にしろネットにしろ他の誰かに意見を求めても,俺と完全に同じ性質を持った人間はいないという理由から,完全な答えは絶対に得られない.
大袈裟に聞こえるかも知れない.
しかし情報が氾濫している現在においては,どこかに完全な答えがあるはずという幻想を抱きがちである.
そのような幻想のもとにたどり着いた答えに対しては,強い盲信を抱きがちだ.
すると視野が狭くなり,それ以外の考えを全て否定することになりかねない.
当然手に入れた答えらしきものは,自分にぴったりとあったものであるわけがない(完全に均質な人間はいないため)ので,いずれその答えの不完全性に絶望することになる.
ここまでの話をまとめると,演繹的には生きられないということだ.
何か一つの普遍的真理を見つけることに力を注いでいてはいけない,ということ.
ではどうすればいいのか.
その答えが,今に集中することである.
生き方の真理,つまりこのような場合にはこのように対処し,別のケースではこのような感情に注意する,などといった事柄に気を取られて目の前の事象を疎かにしているからこそ,人生が複雑であるように思えてしまうのだ.
極限まで変数を削ぎ落としたのが,今に生きるという姿勢である.
具体的には今この瞬間目の前にあることに精神リソースを100%投下することを指す.
その際に案外厄介なのが,非理性に対する論理的思考である.
具体的には不快への原因究明が挙げられる.
例えば今この瞬間,今に集中できていないとする.
ここで「なぜ今俺は集中できてないんだろう?」と考えてしまうとドツボにハマる.
不機嫌な理由となりうるものは過去を遡れば無限に存在するからだ.
そして仮に原因を解明できたところで,それをどうすることもできないことの方が多い.
では不快になった時,今に集中できていない時どうすればいいのか.
それはその感覚すらも観察し,集中することである.
ここで重要なのは,先ほども書いたように論理的にならないことだ.
感じる,観察する,という中立的なものに留めておく.
そうすることによって集中していない自分,という存在に意識が集中していることになり,目的が果たされるのだ.