虚無と闘う大学院生

大学4年間を虚無と堕落で埋め尽くした大学院生が熱量を取り戻すまでを描いたブログ

死んだ心を蘇生する方法

他人の価値観の奴隷となり、自らの熱量の存在しない意味を追い求めて行動し、その度に虚無と絶望に苛まれる…こんなことを続けていると当然自分のやりたいことなんてわからなくなる上にとてつもなく重要な心の性質を失うことになる。

それは楽しむ心である。

何をやっても「こんなの意味がない」と切り捨ててしまうため、全く楽しめない心になっているのだ。

 

このような荒んだ心では、健全な熱量が育つわけもない。

何事にも熱中できない、死んだ心が自分を占拠しているのだ。

 

しかしどのような人生が送りたいかというと、自分の心が良い動きをする目的に対しての熱中の人生である。

だがいきなりそのような目的を見つけ出すことは現状難しい。

なぜならそのような心が良い動きをするかどうか、平たく言えば楽しいかどうかという評価軸の上で生きてこなかったからである。

意味(実際は何の意味も持たない他人の価値観)への迎合として人生を送ってきたため、自分が何をすれば楽しいのか、幸せを感じるのかが全くわからないのだ。

 

そのような死んだ心を氷解し、純粋で健全な熱量、私心のない好奇心を取り戻すために重要なことは遊ぶことである。

それもその遊びの先に何か利己的な目的があってはならない。

遊びの純度が下がり、楽しさが濁り、再び意味への隷従が始まるからだ。

 

しかし遊ぶと言っても何をすれば迷ったとき。

それは他人が楽しそうにしている遊びをパクるということである。

他人が何をしているのか、ということを観察し、楽しそうなことを片端から真似する。

そしてつまらなければ次へ次へ乗り換えていく。

 

具体的にはいろんな人のSNSYouTubeを見ることである。

それらを惰性ではなく、”楽しいことが何かないか探し”という明確な目的を持って行う。

そして少しでも楽しそうだなと思ったものをメモしておき、すぐにできそうな物事にすぐ取り組む。

 

そして大事なことはミーハーになること。

つまり流行、みんなが良いと言っている物事に対して斜に構えて知らんぷりをするのではなく、自ら突っ込んでいくということ。

PokemonGoが流行っているならつべこべ言わずやってみれば良いし、タピオカが流行っているなら行列に並ぶのは面倒臭いにしろコンビニで買って飲んでみればいい。

 

そしてある一つの遊びがひと段落したときにやっておくべきことがある。

それは楽しさの言語化である。

それが楽しいのはなぜなのか、またつまらないのはなぜなのか。

具体的な遊びの中にある自分の感じた楽しさを抽象化する。

そしてその抽象要素が含まれている他の具体的遊びを探せば、無作為に遊ぶよりも、楽しいと感じる確率が高まる。

自分のツボに合わせた遊びを選択しているからだ。

 

そしてそれらの言語化を発信すること。

「自分はこういう遊びをして、こういうところが楽しいから、次はこういう遊びをしてみる」と言った発信をすること。

 

なので具体的な行動としては

  1. SNSYouTubeで楽しそうにしている人の遊びを探す
  2. コストが低いものから実際にやってみる
  3. その遊びの中の楽しさ、つまらなさを言語化し他の遊びに具体化しそれらを発信する

という3stepsである。俺も今日やってみます。