人生の主人であることを強く意識することの重要性
自分の人生の主人が自分であるという至極当然の事実を忘れていると、時として意味、つまり他人の設定した価値観に囚われてしまい時間を無駄にし、楽しみを感じられず虚無に陥る。
例えば本を読んでいる時も主人は自分であって本は奴隷である。
本というものは、制限時間がある人生において読んであげているものである。
自分の楽しさのためのみに本が存在しているのであって、本のために自分が存在しているわけではない。
だからとるべき姿勢は、楽しいところを前のめりに探すが面白くないと思うところはスルーというものだ。
楽しくなくてはならないが、かといって楽しさを探そうともしない傲慢な態度は何も楽しく感じさせなくなってしまう。そして全く興味を感じない部分になんとか楽しさを見出そうとするのも時間の無駄。
そしてそれに深く関連するのが、網羅性や体系的であることへの盲信である。
これらは学校教育や入試の弊害であるが、何か好奇心が発生した対象に対してはとことん網羅的に学ぶのが良いという己の中に価値観が根付いてしまっている。
これはとてつもなく大きい弊害である。
読書においても体系的網羅的であろうとすると、出てくる瑣末な固有名詞に敏感になってしまう上、思考において重要である自らの興味が存在する問いや仮説への意識が疎かになってしまう。
これを避けるためにも本を読む時、何かを学ぶ時には主人然としたどっしりとした精神状態で自らの興味のある問いや仮説に意識を向けながら美味しいとこどりをするのが良い。