息苦しさへの感度を上げて自分に優しくすること
真面目で意味を求めてしまう人がすぐに楽しさドリブンの行動者になるのは難しい。
ある時は楽しさを軸に行動できていても、すぐに意味を求めてしまう。
純粋な興味を基に読み始めた本を細部まで、最後まで読もうとしてしまったり。
意味を求めてしまっている自分を責めてしまったり。
とにかく真面目な自分が邪魔してくる。
真面目な自分が生み出すのは何か。
義務感というクズから生まれる息苦しさだ。
これは比喩ではない。
義務感のみから行動し、意味しか見えていない死んだ心がある時、人は物理的な息苦しさを感じる。
本当に苦しいのだ。
それは息苦しい自分を無視し、抑圧していた過去の自分によって作り出される悪魔だ。
そしてそのような自分と徐々に距離を取り、楽しさを中心に据えるにはどうすれば良いのか。
それは常に自分が息苦しくないかをモニタリングして、少しでも息苦しさを感じているときには「適当で良いんだよ」と声をかけてあげること。
意味を求めてしまう人の心の中には、もう一人の厳しくて禁欲的でバイオレンスなボスがいる。
現実世界におけるお母さんや厳しい塾の先生のような、目標に向かって我が子を、生徒を向かわせる義務のある人が。
別の言い方をすれば自己が分裂しているのだ。
だからそのボスが、行動主体である自分を縛りつけ、禁欲的にさせ、息苦しくしている。
息苦しさを常時モニタリングしそれを自ら和らげる内なる声かけをしてあげることは、自分の中の禁欲的ボスの力を徐々に弱めてあげることにつながるのだ。
とにかく自分に優しくならない限り、意味という悪魔への隷従は終わらない。
そして自分に優しくなるというのは、意味への隷従を支援する意図ではなく、意味からの開放を目的としたものであることに留意しなくてはならない。