虚無と闘う大学院生

大学4年間を虚無と堕落で埋め尽くした大学院生が熱量を取り戻すまでを描いたブログ

否定的解釈と自己攻撃性に基づく自己虐待

昨日はひどいメンタルであった。

朝から自らに対する絶望が起こってきて、一日中そのネガティブは消えることなく居座り続けた。

原因は過去の自らの行動に関する自責である。

これを冷静に考察する。

 

 

自責という現象を分解すると2つの工程に分かれていることに気づく。

それは過去に根拠を持つ自己否定的解釈、そしてその解釈を根拠とした現在における高い自己攻撃性である。

前者が成立しているときには高い確率で後者も起き上がってくる。

これによって強い自責が発生し、思考主体である自分が行動主体である自分を精神的にズタズタにするため、何かをするような精神状態を手に入れられず死へと向かう。

死なずにいられるのが奇跡なくらいの徹底的な自己虐待である。

非常に危険だ。

メンタルの問題とはいえ、身体に影響を及ぼすほどの決定的な攻撃。

本当に辛い。

 

重要なことがある。

過去に根拠を持つ(と思い込んでいる)自己否定的解釈というのは習慣であるということだ。

つまりこの習慣を意図的に遠ざけていくことが第一となる。

 

この習慣化について考える前に目標を考える。

どのような精神習慣になれば自責という残忍な自己虐待をせずに済むのか。

それは過去及び今に対する肯定的解釈と、それを根拠にした自己応援である。

 

否定的解釈というのは読んで字の如く解釈であって事実ではない

このことを忘れてしまうがために、理解する容量が空いていないがために否定的解釈は生まれてしまう。

否定的解釈というのはいくつかの事実があるときに、その中で最もネガティブなものを選び、尚且つその対象の最もネガティブな面のみを見る行為である。

つまり自ら進んで否定的になろうとしているのだ。

これは良い悪いではない。

つまり先天的にネガティブな人と先天的にポジティブな人は符号が違うだけで同じ思考回路なのだ。

質的な差はないということを固く認識しておきたい。

つまり常にネガティブな考え方ができているということは、ポジティブな解釈を習慣化した人になることもできるということだ。

あくまで否定的解釈は癖であるということ。

 

ここから導かれる、好ましい習慣とはフレーミング、つまり物事の正の側面を常に見つけようとすることである。

もともと、ネガティブなリフレーミングを得意としていた我々ならばポジティブなリフレーミングをすることもさほど難しくはない。

 

ここでリフレーミング後の感情を考える。

 

まずはネガティブなリフレーミングをしたとき。

この時は確かに物凄い辛い辛いのだが、しかし一つのメリットを感じている。

それは動かなくて良いというメリットだ。

否定的であり行動の無価値性を信じ込んでいるが故に、行動するかどうかは重要な意味を持たないのだ。

行動したってどうせダメだ、と信じ切っているのだから。

このせいで泥沼に陥る。

本当に辛い。

どこにも行けないから何も変わらない。

 

次にポジティブなリフレーミングをした時。

良い面を見つけ、それによって自己応援的になれるのだから嫌なわけはない。

最も身近にいる人間である自分が味方になったのだ。

これ以上の頼もしい味方はいない。

行動主体が思考主体に応援されるのだから、ネガティブリフレーミング時と比べると当然行動に必要なエネルギーは小さくなる。

 

このように比較すると、当然だが後者の方が精神的な充足感は大きくなる。

そしてこれによってポジティブなリフレーミング=快感という強化学習を行うのだ。

すごい平たい言い方をすると、ネガティブリフレーミングは楽しくないのだ。

 

まとめ

自己否定的解釈に起因する自責という虐待は楽しくない上に死に至る可能性すらある。

よってそれとは反対の自己肯定的解釈という精神習慣を身に付けるのが良い。

そのためには自らを主とした万物へのポジティブなリフレーミング、つまり物事の良い面を探し出す癖を身に付け、その快感を噛み締めるのが良い。

それによって思考主体が行動主体を応援し、行動への敷居が下がる。