虚無と闘う大学院生

大学4年間を虚無と堕落で埋め尽くした大学院生が熱量を取り戻すまでを描いたブログ

アウトプットを定義する

アウトプットという言葉をしっかり定義する必要がある.

なぜなら昨今,アウトプットの重要性,なるものが不自然なくらい叫ばれており,アウトプットというものが複雑で,技術を要するもののように語られる傾向があるように感じられるからだ.

 

そのためにまず,インプットのためのアウトプット,という魔物について考える.

インプットのためのアウトプットとは何か?

それは最終目的としてインプットを据えている,アウトプットのことである.

つまり用語の定義などを自らの口で説明できるようにする行為である.

この行為はどこが厄介であるか.

それは,あたかもアウトプットをしているかのように感じてしまうにもかかわらず,実際に行っているのはただの思考停止インプットである点だ.

つまり,インプットの奴隷にくだったアウトプットなのである.

 

 

アウトプットは主人であるべきだ.

決してインプットの手段という低い地位に据えるべきではない.

なぜならアウトプットのみがマインドフルな行為であるからだ.

つまり没頭しやすいということ.

 

マインドフルに,つまり今ここにのみ意識が向いた没頭状態であれば人間は最大のパフォーマンスを発揮することができる.

局所的なパフォーマンス最大化によって,巨視的な成果も当然最大化されるため,幸福を感じる確率が高くなるだろう.

また没頭状態そのものに幸福をもたらす作用がある.

つまりマインドフルなアウトプットを行うべきであり,インプットの下僕であるような下等で非没頭的なアウトプットもどきは断じて行うべきでないのだ.

 

では主人然とした,没頭性のアウトプットとは何か?

それは,本来そこになかった何かを付加し,吐き出すことである.

付加するものとしては,自らが何を考えたか,何を感じたか,はたまた感じたことをどのように分析したか,などである.

吐き出す,と言ったのは付加物に完全性を求めなくていい,という意味を込めたかったからである.

どのような考え,感じたことであっても,それが本来のものに無かったものであればアウトプットと言える.

 

インプットのためのアウトプットと違う点は何か.

インプットのためのアウトプットは,自らの脳もしくは心による付加及びその言語化を一切行っていない.

つまり思考も感情も停止しているのだ.

その点,没頭性のアウトプットは脳もしくは心の様子を観察しており,その言語化まで行っている.

 

脳も心も動いていない場合,当然楽しくない.

なぜなら脳や心が動いている状態のことを,”楽しい”と定義しているからだ.

 

よって理性的思考にしろ,感情的な動きにしろ,それらを言語化して吐き出すこと.

これこそが没頭性の高い,楽しいアウトプットを導く方法なのである.