虚無と闘う大学院生

大学4年間を虚無と堕落で埋め尽くした大学院生が熱量を取り戻すまでを描いたブログ

就活へのマクロなモチベーションについて

最初にまとめ

マクロにおいては就活によって入社後の仕事とポジティブな感情をセットで鮮明にイメージングする習慣,

ミクロにおいては強制的に就活関連の作業を行うための対人環境構築と,マクロを打ち崩そうとするネガティブマインドの認識と放置の習慣が重要となる.

 

全てのミクロな行動には”めんどくさい”という負の加速度がかかり,やりたくなくなる.

だから,就活における諸々の作業を全て楽しくやりたい!楽しくない作業は一切したくない!などというありえないことは言わない.

しかし,就活という大きなモノそれ自体に一切のモチベーションなく禁欲的に取り組むことはできない.

よって就活へのマクロなモチベーションを探る.

 

自分がアウトプットをして,何らかの価値を付加することによって,報酬を得ること.

それが仕事だと考えている.

よって自分の知識や思考によって何らかのアウトプットをしている様子を具体的に想像し,そこにポジティブな感情を貼り付けるイメージングを行う.

 

仕事というアウトプット先がわからないのに勉強なるものにマクロなモチベーションが生じるわけがない,という気がしてきた.

なので真っ先に行いたいミクロな行動は,様々な社会人がどのようなアウトプットによって価値を生み出しているのかを知ること,そして社会人の集合体である企業がどのような価値を生み出しているのかを知ることである.

インターンに行ってみたり,企業の事業を細部まで調べてみたり.

そしてそこに向けたインプットや思考を行ってみる.

 

そしてイメージング,ビジュアリゼーションを習慣化するということも重要だ.

しかし当然ながら,マクロのポジティブマインドを崩そうとする感情も出てくる.

俺には提供できる価値などない,大して勉強してこなかったじゃないか,周りを見てみろ俺なんかよりよっぽど勉強してるだろ,もう手遅れだetc...

このようなものに対しては心が絶え間なく捜索する一つの物語に過ぎない,として真剣に受け取らない技術が必要である.

ポジティブであり続けようとするのではなく,ネガティブを認識し放っておくこと.

これがミクロにおいては強制作業環境と並んで重要である.

 

まとめ

マクロにおいては就活によって入社後の仕事とポジティブな感情をセットで鮮明にイメージングする習慣,

ミクロにおいては強制的に就活関連の作業を行うための対人環境構築と,マクロを打ち崩そうとするネガティブマインドの認識と放置の習慣が重要となる.

熱意を持った行動の軸を一つ持っておくことによる生きる希望の出現

中身も外見もかっこいい男でありたい.

いい体をしていたい.

上記のようなニュアンスのものでなくてもいいが,そのような自らの素直な熱意を元に行動することが大事である.

目標,というようなゴールの決まったものじゃなくていい.

というかそうじゃない方がいい.

目標というのはベンチプレスを100kgあげたいといった,達成可能であり達成した瞬間に意味を持たなくなるもののことである.

一方,かっこよくなりたい,いい体になりたい,筋肉つけてデカくなりたい,というのは目指す地点ではなく,向かう方向に関する記述である.

いわば方角である.

かっこよくなりたい,という望みは西に旅をするようなものだ.(これは僕のお気に入りの本の受け売りなのだが)

完全に達成されることはなく,熱意を持って行われる方向を持った量だ.

 

どのような熱意を持つかは別として,自分の外部に意識を向けることは精神衛生上非常に重要である.

自らの意識のベクトルが内に内に向いている状態では,自意識が過剰になり,過去の蓄積に対する自責などが誘発される.

 

そしてその熱意に従って行動し,前進している自分の姿を想像,イメージングするのだ.

しかも最高に鮮明に.

 

そして熱意を持って設定した方角に向かって貪欲に,がむしゃらに,向かっていくのだ.

日常の全ての時間を,その方角に前進するような勢いで.

全ての行動において,その方角への射影を最大化するのだ.

ご飯を食べるときにも,体をデカくすることを考えながら,ワクワクしながら,楽しんで味わいながら食べる.

歩くときにも,いい体であることを想像しながら地面を踏み締める.

寝るときにも,筋肉が十分やすみ,次回の筋トレの際に十分力を発揮できるように想像しながら寝る.

仕事をするときにも,この仕事で稼いだお金で鳥胸を,コメを買い,ジムの月会費を払うのだ,と考えながら一生懸命に取り組む.

そのように全ての行為を自らの熱意の方角に結びつける.

 

しかし一つ大事なことがある.

それはミクロには禁欲的である必要があるということだ.

マクロに,つまり自分がどの方角を向いて歩みを進めるかということについては,ポジティブに,motivativeであるべきだ.

しかし実際にその方向に何らかのミクロな行動をすることは,体が拒絶する場合が多い.

楽をしたいからだ.

よってそのようなミクロな不行動に対しては環境のような強制力を持ち込んで,良い方角に向かわせる必要がある.

 

じゃあ自らがもった熱意の他の方角についてはどうする?

そんなことはどうでもいい.

とりあえず一つ熱意を持ちその軸に対して目的関数を最適化することを考える.

それにより,少なくとも一つの生きる理由ができる.

全てはそこからだ.

 

そこからすべきことは何か.

それは新たな熱意を探しに,新しい行動を続けることだ.

境界を曖昧にし超然的であることの重要性

境界が明確であるということは幸福であるように見えて実は不幸である.

というのも,境界が明確であった場合,往々にしてそれらのどちらかが悪とされ,もう一方が善とされる傾向にあるからだ.

 

一つ例をあげる.

これは筆者が瞑想をしているときのことだ.

瞑想というのは,今ここに集中する練習として行われることが多い.

しかしここでも境界を明確にしてしまいがちである.

ここでいう境界とは,今ここに集中できているか,というものである.

つまり今ここに集中できている場合は善,そうでない場合には悪という価値観を,自分の中に持つということだ.

 

このようなとき,人の頭の中には精神的な領域ができている.

境界の内側であれば善であり,外側なら悪であるという領域だ.

この場合,人間はどうなるか.

例えば先ほどの瞑想の例.

今ここに集中できていることが善とする価値観においては,意識が今ここにない状況は悪ということになる.

すると筆者は筆者の悪であることを責め始めるのだ.

これは非常に不幸なことである.

なぜなら自ら己を攻撃してしまうのだから.

明確な境界線によって,二元論的価値観を持ってしまったが故の不幸である.

 

ではどうすればこの境界が曖昧になるか.

それはLet it goの精神である.

この句はどのような意味を持つか.

goというのは,本来あるべき場所から離れるように移動する,という意味を持つ.

つまり,常である境界線の中からその外へと出ていく動き全体を指す.

常→異常への移行である.

letとは何かというと,そのままにしておく,許すという意味だ.

そしてitは漠然とした状況,といったところだろう.

そしてそれらをつなげるとLet it goというのは,状況が常から異常へと移行するのをそのままにしておくという意味になる.

 

瞑想においては,意識が今ここから離れていることをそのままにしておく,つまりコントロールしようとしないということだ.

意識が今ここから離れてしまうというのは,人類が過去に学び未来を予測する上で不可避の現象なのだ.

つまりそれをコントロールすることは不可能なのだ.

であれば,そのような二元論的価値観をもたらしてしまう境界自体をぼやけさせ,曖昧にする.

そうした巨視的で,グラデーションを含んだ思考のフレームワークを身につけることが,不必要な葛藤を避ける最善の策であるように思われる.

アウトプット目的地を明確化してからインプットすること

どのようなアウトプットを出すのか.

それを明確にした上で全てのインプットを行う.

それがインプットの鉄則である.

 

その意見にはこんな反論がありそうだ.

それは,とにかくインプットをすることも大事だ,と.

しかし別にここで想定しているのは,スケールの大きいアウトプットではない.

どんなに小さいアウトプットでもいいから設定し,志向することが重要ということだ.

真に知識欲から出発した場合であっても,なんらかのアウトプット志向でなくては,インプットにおける軸が生まれない.

つまり情報の濃淡が生まれないのだ.

これは必要な情報,これは不必要な情報,といった識別が起こらないようでは,インプット後に何も頭に残らないのだ.

どんなアウトプット を出すかを決めておけば,そのアウトプットにこの情報が役立つか,という視点で情報を自動選別するため,つながった有機的な思考が可能となる上に,有用な知識体系が頭に残ることになる.

この結合した有用な知識体系があるからこそ,次のインプットの際により良いアウトプット ができる確率が高まるのだ.

アウトプットを定義する

アウトプットという言葉をしっかり定義する必要がある.

なぜなら昨今,アウトプットの重要性,なるものが不自然なくらい叫ばれており,アウトプットというものが複雑で,技術を要するもののように語られる傾向があるように感じられるからだ.

 

そのためにまず,インプットのためのアウトプット,という魔物について考える.

インプットのためのアウトプットとは何か?

それは最終目的としてインプットを据えている,アウトプットのことである.

つまり用語の定義などを自らの口で説明できるようにする行為である.

この行為はどこが厄介であるか.

それは,あたかもアウトプットをしているかのように感じてしまうにもかかわらず,実際に行っているのはただの思考停止インプットである点だ.

つまり,インプットの奴隷にくだったアウトプットなのである.

 

 

アウトプットは主人であるべきだ.

決してインプットの手段という低い地位に据えるべきではない.

なぜならアウトプットのみがマインドフルな行為であるからだ.

つまり没頭しやすいということ.

 

マインドフルに,つまり今ここにのみ意識が向いた没頭状態であれば人間は最大のパフォーマンスを発揮することができる.

局所的なパフォーマンス最大化によって,巨視的な成果も当然最大化されるため,幸福を感じる確率が高くなるだろう.

また没頭状態そのものに幸福をもたらす作用がある.

つまりマインドフルなアウトプットを行うべきであり,インプットの下僕であるような下等で非没頭的なアウトプットもどきは断じて行うべきでないのだ.

 

では主人然とした,没頭性のアウトプットとは何か?

それは,本来そこになかった何かを付加し,吐き出すことである.

付加するものとしては,自らが何を考えたか,何を感じたか,はたまた感じたことをどのように分析したか,などである.

吐き出す,と言ったのは付加物に完全性を求めなくていい,という意味を込めたかったからである.

どのような考え,感じたことであっても,それが本来のものに無かったものであればアウトプットと言える.

 

インプットのためのアウトプットと違う点は何か.

インプットのためのアウトプットは,自らの脳もしくは心による付加及びその言語化を一切行っていない.

つまり思考も感情も停止しているのだ.

その点,没頭性のアウトプットは脳もしくは心の様子を観察しており,その言語化まで行っている.

 

脳も心も動いていない場合,当然楽しくない.

なぜなら脳や心が動いている状態のことを,”楽しい”と定義しているからだ.

 

よって理性的思考にしろ,感情的な動きにしろ,それらを言語化して吐き出すこと.

これこそが没頭性の高い,楽しいアウトプットを導く方法なのである.

とにかくアウトプット!に対する疑念の解消と入信の話

まずアウトプットから入ろう!

アウトプットを意識したインプットをしよう!

 

こういった文言に対して否定的だった.

なぜなら,インプットもしないでアウトプットに取り掛かろうとすれば,自分が何も知識が無いことに対しての羞恥心に耐えられず,アウトプットどころではなかったからだ.

 

しかしここ3習慣ほど毎日朝夜5分ずつの瞑想を習慣にし,マインドフル,つまり今に意識を集中させることが徐々に染み付いてきた今このことについて考えてみると,違った結論が浮き上がってくる.

それはアウトプットから入ることの合理性である.

 

そもそもなぜ俺はインプットなしのアウトプットによって羞恥心を感じていたのだろうか.

それは過去への後悔というマインドレスな状態が習慣になっていたからではないか.

マインドフルを習慣にしている今だからこそ気付けることなのだが,その当時はそのような考えの枠外にいたため気づきもしなかった.

マインドフルに,つまり意識を今ここのみに集中できるようになってきた今,アウトプットから始めることは正しいと感じている.

 

大学院のレポートをやっているときに感じたことを述べる.

レポートというのは一般的に,自らが日常的に興味を持っていることの外の話題について,自らの意見を述べなければいけないものである.

しかしここのところその作業に非常に没頭できているのだ.

なぜか.

それは解くべき問題が明確になった上で,その助けになるような情報を探しにいくインプットには,ゲーム性があるからだ.

そして解くべき問題というのは明確さが重要なファクターであって,それに対する興味・好奇心の程度はさほど重要でないということも判明した.

なぜなら,講義のレポートという自らの真なる興味とは言えない事柄に対しても例外なく没頭できているからだ.

 

また今回の経験で発見したもう一つの重要な事実は,わからない問題に対してもとにかく手を動かして書いてみる・タイピングしてみることによって,何がわからないかがわかるということである.

今までわからない問題には,わからない理由を直接探る前に,まず周辺知識を入れようと試みていた.

なぜならマインドレスな状態であったが故に過去への後悔の念が容易に表出するため,その低い自己肯定感を高めようと,目的のない知識で自分を武装する必要があったからだ.

しかしそれは目的直結的ではない.

当然だ.

自分がわからない,という事実を受け止めるだけの心の余裕がないから,わからない事実から逃げようとするのだ.

仕方のないことだ.

しかしマインドフルであることを染みつかせていくと,徐々に自分がわからないという事実を真正面から受け止め,とりあえずアウトプットしようと試みることができる.

一切その分野に関しての知識がなくても,である.

 

とにかく手を動かしてみると,当然ながらわからないところが出てくる.

そして何がわからないのか,ということを嫌でも考えざるを得なくなる.

壁にぶつかり,自動的に原因を考えざるを得なくなるという状況を作り出すにはとにかく問題に対しての考えを吐き出すしかないのだ.

 

そしてそのために最低限必要なことというのが,先ほど述べたように解くべき課題が明確であることなのだ.

解くべき問題が明確であるからこそ,”自分がわからない”ということが判定できるのだ.

つまり無知の知である.

 

まとめ

自分の思いついた問題を明確にし,とりあえず設定してみる.

その上で,それに対して今考えられること,感じられることを吐き出してみる.

そうすることによってようやく自分が何をわかっていないのかがわかり,動き始められるのだ.

そして何より,問題を設定し達成することは没頭に向けた最高の手段である.

没頭を飼い慣らすとスマホは自然と離れていく

スマホは没頭の敵である.

しかしスマホを遠ざけようとしてはいけない.

きちんと生きていけばスマホの方から勝手に離れていく.

 

1.スマホvs没頭

まずスマホは没頭の敵である点について,スマホにおいてよく使用するアプリや機能を元に考える.

 

例えばLINE.

様々な人からのメッセージを一覧にしている.

これによって注意を分散させ,意識の対象になりうるものを増やし,できるだけ長時間使わせようとする.

またメッセージのみならずタイムラインやニュースを掲載することで,さらに抽象度の高いレベルでも意識の散乱を起こさせている.

 

そしてyoutube

動画を見ようとしても,主目的の動画のみならず様々なものが目に入ってくる.

動画中の広告,動画のレコメンド,そして動画へのコメントなどだ.

動画を見ることよりも,それに付随するものに意識を向けさせることで,興味の持続を図っている.

 

そしてそもそものスマホの機能である通知.

これはいうまでもなくdistraction,意識の散乱の象徴である.

他のアプリをしている時,スリープ状態にしている時ですら逃してくれない.

 

このようにあらゆる場面において意識の散乱を図ってくるスマホは,没頭するのが最も難しいものである.

 

2.スマホを遠ざけようとしてはいけない理由

そこで何かに集中するために,スマホを遠ざけることから始めようとすると,失敗する.

遠ざけようとすることによって,意識の土俵の上にスマホを乗せてしまっているのだ.

真っ赤なリンゴを想像しないでください,と言われて真っ赤なリンゴを想像しないことが難しい,という例のアレである.

どれほどスマホを遠ざけることが上手くなっても,スマホの他に何か没頭できる対象が無い限り,スマホに意識が向いてしまうというのも理由の一つだ.

 

3.ではどうすればいいのか

それは先ほどの記事にも書いたようにスマホ以外の生活において没頭する癖をつけるということ.

身近に聞こえる音,食事,匂い,体の感覚,呼吸.

そういったものを感覚で受け取り,感じること.

それはすなわち今ここ,つまり現在の一点に意識を向けることに他ならない.

そのような習慣が染みつけば,スマホという意識散乱を誘引するものには魅力を感じなくなる.

自分が集中していないことを感じ,それがつまらないことだと認識し,五感を研ぎ澄ませて何かに意識を集中させること.

いきなり思考の没頭をしようとすると失敗する.

難易度が高いからである.

だからまずは身一つ,感覚だけで可能な没頭を常時行うこと.

これが癖になればスマホなど恐るるに足らず.