境界を曖昧にし超然的であることの重要性
境界が明確であるということは幸福であるように見えて実は不幸である.
というのも,境界が明確であった場合,往々にしてそれらのどちらかが悪とされ,もう一方が善とされる傾向にあるからだ.
一つ例をあげる.
これは筆者が瞑想をしているときのことだ.
瞑想というのは,今ここに集中する練習として行われることが多い.
しかしここでも境界を明確にしてしまいがちである.
ここでいう境界とは,今ここに集中できているか,というものである.
つまり今ここに集中できている場合は善,そうでない場合には悪という価値観を,自分の中に持つということだ.
このようなとき,人の頭の中には精神的な領域ができている.
境界の内側であれば善であり,外側なら悪であるという領域だ.
この場合,人間はどうなるか.
例えば先ほどの瞑想の例.
今ここに集中できていることが善とする価値観においては,意識が今ここにない状況は悪ということになる.
すると筆者は筆者の悪であることを責め始めるのだ.
これは非常に不幸なことである.
なぜなら自ら己を攻撃してしまうのだから.
明確な境界線によって,二元論的価値観を持ってしまったが故の不幸である.
ではどうすればこの境界が曖昧になるか.
それはLet it goの精神である.
この句はどのような意味を持つか.
goというのは,本来あるべき場所から離れるように移動する,という意味を持つ.
つまり,常である境界線の中からその外へと出ていく動き全体を指す.
常→異常への移行である.
letとは何かというと,そのままにしておく,許すという意味だ.
そしてitは漠然とした状況,といったところだろう.
そしてそれらをつなげるとLet it goというのは,状況が常から異常へと移行するのをそのままにしておくという意味になる.
瞑想においては,意識が今ここから離れていることをそのままにしておく,つまりコントロールしようとしないということだ.
意識が今ここから離れてしまうというのは,人類が過去に学び未来を予測する上で不可避の現象なのだ.
つまりそれをコントロールすることは不可能なのだ.
であれば,そのような二元論的価値観をもたらしてしまう境界自体をぼやけさせ,曖昧にする.
そうした巨視的で,グラデーションを含んだ思考のフレームワークを身につけることが,不必要な葛藤を避ける最善の策であるように思われる.