ひたすら自らのツボを探すということ
禁欲的義務感の末には死のみが待っていることを先ほど述べた.
よってそれが湧き出てきたときにはそれを察知し,観察し,存在を認めることが重要であることも述べた.
そのような工程を前提とした上で,次に,というか同時に何を行えばいいか.
それは自らの心がどのような要因に対して喜ぶのかを観察し続けるということだ.
そのためには様々なものに触れる必要がある.
焦らないでいい.
ただ触れて,心がどう動くかを観察すればいい.
その時に注意すべきなのが,これまた義務感によって自らを律しようとしないことである.
観察しなければならない
楽しまなくてはならない
これらの感情は残念ながら楽しむことから最も遠ざかってしまう.
これらの禁欲的義務感が芽生えたときにはそれを素直に認知,観察,存在受容をすることである.
そして目の前にあるものに意識を戻し,どのような要因に自らの心が喜ぶのかを観察することである.
このことによってしか,生きた,楽しむことのできる心は養われない.
何をやりたいか,人生の目的は何か,などを考えるのはその後である.
まずは生きた心を,リラックスしながら育てていくことである.
焦らず,ゆっくり.