禁欲的だからこそダラけるということ
ここで言う禁欲的とは生きる姿勢においてである.
つまり,マクロにおいて禁欲的であることだ.
生きることのモチベーションを内部化せず,ひたすら自分を律し行動しようとする姿勢である.
自分のやりたいことのために行動を継続する,というのはここでは禁欲的とは呼ばない.
なぜならそのような場合には,モチベーションの内部化ができているからだ.
自らの中に信じる価値観が,価値軸が存在するからだ.
禁欲的であるとどうなるか.
禁欲的であるというのは,「やらなくてはならないこと」にフォーカスする姿勢である.
基本的に人間はバランスを取ろうとするため,「やらなくてはならないこと」を強く意識することによって「やらなくてもいいこと」に強く意識を引きつけられる.
ボディービルダーやフィジークなど,ボディーメイクの選手は試合前に食事に占める脂質の割合を極限まで落とす.
そして大会が終わり,減量する必要がなくなった後何を食べたくなるか.
寿司,焼肉などではない.
ジャンクフードが食べたくなるのだ.
それはバランスを取ろうとしていることに起因する.
脂質の少ないものを食べ続けた結果体が真に欲するのは,旨いものではなく,とにかく脂質の多いものなのだ.
これと同じことが禁欲的であること全般に適用できる.
禁欲的だからこそ,その反動でひたすらにダラけてしまうのだ.
やる価値のない行動はせず,やらなくてはならないことにのみ意識を向けようとしているからこそ,楽しんでいろいろなことに手を出してしまう一見チャラついた心の持ち主に,充実感という点において劣ってしまうのだ.
youtubeもtwitterも観てはいけない,今はあの書類作成にとりかからなくてはいけない,という禁欲的義務感を持っていると,余計にyoutubeとtwitterに引き寄せられるのだ.
ダラけようとしているときにこそ,自らに義務感が発生していないかを認知,観察,存在受容してあげることが重要なのである.