虚無と闘う大学院生

大学4年間を虚無と堕落で埋め尽くした大学院生が熱量を取り戻すまでを描いたブログ

絶望から脱する唯一の手段は感謝習慣である

虚無,鬱,学習性無力感,生への絶望,すべてのネガティブな感情とはどのようにして発生するのか.

それを考察するためには,感情の生成過程を知る必要がある.

 

感情とは解釈である.

解釈というのは原料としてはこの世に存在せず,自らの手によって生成するものだ.

実際にこの世界に存在するのは客観的事実のみであり,そこに自らの解釈を付与することで,我々は対象についての感情を抱く.

つまりどのような感情であっても,それを生成しているのは自分自身であるということだ.

だからネガティブなのは自分のせいだ,などという短絡的な結論を導きたいわけではない.

ただこのことを前提として考える必要がある,というだけだ.

 

ここで最初に問いかけた疑問に戻る.

ネガティブな感情とはどう生まれるのか.

それは対象におけるネガティブな部分を自ら進んで発見し,それを増幅させることで,そのネガティブな部分が対象の大部分もしくは全てを占めている,という判断をすることによってである.

場合によっては事実ではないネガティブな部分を自ら作り出し,それを対象と一体化させることで,ネガティブな感情を生成することもある.

再び注意しなくてはならないのは,これは良いとか悪いとかの話ではないということ.

ただこの生成プロセスをしっかりと理解しておくことが必要だということだ.

 

そして理解すべき次の点は,対象におけるネガティブな面を見つける,もしくは自ら作り出すというのは,精神的な習慣であるということだ.

この精神的習慣が根深く,長期的に渡って染み付いている場合,どのような表面的な処置を行ったとしても再び絶望へと帰ってくる.

なぜならどんなに行動したり成果が出たりしても,そこにネガティブな側面を見つけ出しそれを増幅してしまうからだ.

こうなると自分の力では到底抜け出せない泥沼にはまる.

泥沼なんて生温いものじゃないかもしれない.

自ら命を断つ人もいるだろう.

真に絶望している時などというのは,あらゆる物事の意味を見失い,圧倒的な無力感,絶望感に苛まれ,自暴自棄になるからだ.

 

よってどんな措置よりも最優先して行わなくてはならないのは,全てに対してネガティブさを見出す精神習慣からの脱却なのだ.

文字通り最優先である.

何を差し置いてもこれが行われない限り,何をしても再び底のない絶望に襲われる.

難しいことはわかっている.

ここで言っているのは,これができないのはダメだという非理性的な主観ではなく,これが最優先にされる以外に絶望から脱する方法はない,という理性的な確固たる事実だ.

これを頭の片隅に置いておいてほしい.

そして比較的心に余裕があると感じられる時にそこから脱するための手段を講じようとする,ということだ.

もちろん無理な時にはしなくてよい.

 

ネガティブさを積極的に見出す精神習慣を脱するための,最も手軽(=特別な道具が必要ないという意味)であり,有効性が認められる手段が感謝である.

感謝とは何か.

それは対象におけるポジティブな側面を発見もしくは生成し,それを増幅する行為である.

つまり絶望へ向かう精神習慣と正反対のものである.

 

したがって,日常における様々な対象においてポジティブな側面を見つけることができるよう,意識的に感謝をする時間を設ける必要がある

そのために至る所で提唱されているのが,夜寝る前に3つのことに感謝するという手法だ.

別に朝起きた直後でもいい.

 

もちろん絶望の中にいる人間からすれば,こんな手法はひたすらに馬鹿馬鹿しく映るのも無理はない.

しかしこれ以外に方法はないのだ.

こういった馬鹿馬鹿しく見える,効果のなさそうな小さい行為を,自分のものとして染み付かせていくしか方法はないのだ.

 

人生が全く楽しくなく,絶望すらしているのはなぜか.

どんなものに対してもいい面を見つけることができないからだ.

そのこと自体を評価すべきではない.

人はそれぞれ様々なバックグラウンドがあり,そのような思考に至ったことには原因がある.

自分に絶望の責任はない.

行動しないのが悪い,などと無神経にアドバイスしてくる生来の楽観家もいるかもしれないが,そんな奴は放っておくしかないのだ.

生まれてきた星が違うのだから分かり合えるはずもない.

 

ただ唯一の事実は,あらゆる物事に対してポジティブな側面を見つけるような習慣がない限り絶望は消えないということだ.

そしてそれをするために,有効なのが毎日自分の決めた時間に感謝を行うということなのだ.

感謝習慣によってのみ,習慣的絶望を遠ざけることができる